津軽三味線について
歴 史
青森県津軽地方で盲目の旅芸人達が始めた門付け芸。彼らは坊様(ボサマ)と呼ばれ長く蔑まれた。家々の軒先で三味線を弾き歩き、米やお金を貰って歩いたとされる。やがて民謡の旅まわり一座などで弾かれるようになり、名人達の手によってより発展して行く。
昭和、戦後の民謡ブームの頃『津軽三味線』と名付けられ全国へ普及し、民謡の伴奏楽器から、三味線のみの独奏としても弾かれるようになって行った…。
演 奏
津軽三味線は盲人芸なので本来は楽譜はありません。即興で演奏します。約束の中決まったフレーズなど構成を変えて弾いて行きます。同じ曲でも演奏者によって内容は違い、また、弾く度に内容が変わります。ジャズやブルースのようです。『津軽じょんから節』をひとつとっても演奏者によって構成が違う訳です。そこが津軽三味線の魅力のひとつだと思います。(現在譜面はあります)演奏方法は、撥を皮に叩きつけるように弾いたり、掬ったりしながら、その合間に指で押したり、はじいたりします。
三味線
三味線には、細棹、中棹、太棹があります。それぞれさおの太さが違います。津軽三味線はもっとも太くて重い、太棹(ふとざお)を使います。門付けされていた頃は細棹や中棹が使われていたそうです。
三味線の材料は主に、棹は紅木(こうき)や花梨、糸は絹糸、撥は鼈甲などが使われています。動物の皮が貼られていて、皮の張りの強さで音が変わります。
強く貼られた場合は、硬く冴えた、はっきりとした音。張りが弱いと、ボンボンとして丸いような音の響きになります。昔は弱い張りだったそうです。
音 色
津軽三味線の音色は地吹雪を想わせるような音。ある時は雪をも溶かす炎のように力強く、人間の悲遇な運命に立ち向かうよう音でもあります。そして時には、か細く透き通る音や、妖艶な響きを奏で、明るく楽しい音であったり、また、風や海、自然音を描写し、大地を賛美する…津軽三味線の音色には様々な表情があります。
門付け精神青森県北津軽金木町、岩木川の河原に住む一人の男により津軽三味線は誕生しました。
越後瞽女に影響を受けた津軽三味線の始祖『仁太坊にたぼう』(1857~1928)彼は八歳の時に疱瘡にかかり生死をさまよい、失明してしまう。母親は仁太坊を産みまもなく他界。父は岩木川の船渡し守りで、仁太坊が十五歳の時に事故により水死、天涯孤独となる。そして生きて行く為に彼は門付けをし、その日の糧を求め一人三味線を弾き歩きました。筋目悪しき者と蔑まれ、決して豊かな生活環境では無かったそうです。そんな中叩き奏法を自ら編み出し、オリジナルな三味線芸を確立していきます。弟子達へ、「人真似で無く汝の三味線を弾け!」と教え、芸哲学が演奏者達へ受け継がれ、それぞれ弟子達の三味線芸は個性的になって行きます…。やがて仁太坊最後の弟子、津軽三味線の神様と呼ばれた白川軍八郎が(1909~1962)曲弾きを編み出します(三味線の独奏で、曲芸のような弾き方)。彼も又盲人であり、金木の出身で、人真似で無い津軽三味線を編み出しました。また、彼の弟子には三橋美智也さんがいます。彼の日劇で行われた、『民謡生活二十周年20周年リサイタル(昭和34年)』で軍八郎はゲスト出演し、三味線を披露、注目されます。この事などをきっかけに、ボサマ三味線は津軽三味線と名付けられ広まって行ったそうです。現在の津軽三味線の曲弾きは軍八郎の三味線が礎になっているそうです…。
津軽三味線を始めたボサマ達、彼らの多くは疱瘡や麻疹などで失明をしてしまい、まだ少年である彼らのほとんどが家族から絶縁され、米俵などを師匠に納め弟子入りして修業、独立し、生きる為に一人放浪しながら三味線を弾き歩きました。逆境から生まれた魂の叫ぶような音は現代人の心を打ちます。昨今の津軽三味線の普及の根底には、ボサマ達の門付け精神、ハングリー精神によって紡ぎだされた音があると思います。
そして“人真似で無い”名人達の創意工夫が、独特の三味線芸術に高められたのかもしれません。ジャズやブルース、サンバなどと発祥が似ています。時代を越え、世界にも通用する普遍的な音楽。この門付け精神を讃え、私は演奏させていただきたいと思っております。